国際刑事裁判所(ICC)の赤根智子所長(日本人初)がアメリカの制裁対象に指定されてから、6日がたった。赤根所長は8月23日、NHKの電話インタビューで、ICCの「存続確保に力を」と日本への期待を口にした。呼びかけは制裁が始まってからではない。制裁の3週間前、7月27日の時点で「アジアで抜ける国がないように働き掛けてもらいたい」と日本に要請していた。
この記事で確定させたい事実は、ひとつだけである。赤根智子という人は、日本の政府が閣議で了解して、国の候補として送り出した人だということ。2016年4月22日の外務省発表に、そう書いてある。本人も著書で「立候補するよう要請を受けました」「私に白羽の矢が立った」と書いている。つまりこれは、一人の日本人が海外で困っている話ではない。国の看板で送り出した人が、同盟国から制裁を受けている話である。
制裁から6日間の政府の対応は、外務報道官談話と高市早苗首相の「大変残念」だった。批判はすでに飛び交っている——ひろゆき氏が高市首相の1月の投稿を引用した批判は92.8万インプに達した。この記事は批判の側には立たない。代わりに、擁立の記録、制裁の実害、本人の呼びかけ、政府の対応を、日付で並べる。並べ終えたとき残る問いは「政府は冷たいか」ではなく、「国が送り出した人を守る制度が、日本にあるか」である。答えを先に言えば、ない。
この時系列の最後の行が、この記事の結論である。以下、行ごとに根拠を置いていく。言葉を先に開いておく。
| 言葉 | この記事での意味 |
|---|---|
| 閣議了解での擁立 | 国際機関の選挙に「日本の候補」を立てるとき、政府が閣議で決めて外務省が発表する手続き。個人の立候補ではなく、国が身元を保証して送り出す形 |
| 制裁指定(SDN) | 米財務省のリストに載ること。米国内の資産が凍結され、米国人・米企業がその人に物やサービスを提供すると犯罪になる。訴訟では「金融上の死刑」と呼ばれた |
| コルレス銀行 | 海外送金やドル決済のために銀行同士が結ぶ取引網。ほぼすべての国際的な銀行が米国の金融システムを経由するため、米国外の銀行も制裁対象者との取引を自主的に断ることが多い。「制裁=アメリカ国内だけの話」にならない理由 |
| ブロッキング規則 | EUが持つ対抗立法。域内の企業・個人が米国の域外制裁に従うことを禁止し、被った損害を裁判で取り戻せる。日本に相当する制度はない |
擁立の記録。1枚目の公文書は2016年4月22日
「白羽の矢が立った」と本人が書いている
外務省の発表は残っている。2016年4月22日、当時の岸田文雄外相が閣議で、翌年秋のICC裁判官選挙の候補者として「赤根智子法務省法務総合研究所長兼国際司法協力担当大使」を指名する旨を説明し、了解された。赤根氏は1982年に検事任官、東京高検・最高検を経た「我が国の刑事分野の専門家」(外務省発表)である。2017年12月の選挙で当選し、2018年3月に判事就任。判事の任期は9年、2027年3月までである。
立候補の経緯は、本人が著書『戦争犯罪と闘う 国際刑事裁判所は屈しない』(文春新書)でこう書いている。
法務総合研究所の所長だったときに、私はICCの裁判官選挙に立候補するよう要請を受けました。私に白羽の矢が立ったのは、いちおう英語が使えて、法務総合研究所、アジ研での勤務経験があったからだと思います
── 赤根智子『戦争犯罪と闘う』(文春新書・2025年)からの公式抜粋
SNSでは「本人は乗り気ではなかったのに法務省が立候補させた」という言い方も拡散したが、本人の言葉で確認できるのは「要請を受けた」「白羽の矢が立った」まで である。乗り気だったかどうかは書かれていない。確認できた範囲で言えるのは、自分から手を挙げたのではなく、国の側が選んで送り出した、ということだ。
2024年3月11日、判事の互選で日本人初のICC所長に選出された。外務大臣談話が出ている。所長の任期は「3年間又は判事としての任期の終了までの期間のいずれか早い満了の時まで」——つまり2027年3月が上限である。そして今年1月7日、赤根所長は首相官邸に高市首相を表敬した。外務省の記録にはこうある。日本は「法の支配を重視しており、ICCがその役割を果たせるよう、日本政府としてICC及び赤根所長を力強く支援していく」。
制裁で、実際に何が起きるのか。先例がある
「金融上の死刑」。カードが止まり、メールが消え、Alexaが黙る
8月18日、ルビオ米国務長官は赤根所長とセイェ上級公判弁護士(セネガル)の制裁指定を発表した。根拠は2025年2月の大統領令14203。米国内資産の凍結、米金融システムからの排除、そして米国人・米企業が対象者に「あらゆるサービス」を提供することの犯罪化である。
これが生活で何を意味するかは、先に制裁されたICC関係者の身に起きたことが教えてくれる。カリム・カーン前検察官(英国)は、Microsoftにメールアカウントを止められ、スイスのプロトンメールに移った。母国イギリスの銀行口座も凍結された(LBC・PBS)。2025年8月に指定されたプロスト判事(カナダ)は「即座にクレジットカードが使えなくなり」、AmazonのAlexaが応答しなくなり、購入済みの電子書籍が端末から消えた(AP通信)。同僚のカーン次席検察官(フィジー)はこう語っている。「カードがどこかで使えないとき、それがただの不具合なのか、制裁なのか、確信が持てない」。
米国外の銀行やテック企業まで従うのは、米金融システムから締め出されるリスクを恐れるからである(Just Security)。ドル決済はコルレス銀行の網を通るので、日本の銀行が日本国内で赤根氏と取引する場合でも、萎縮は起こり得る。判事らが米国で起こした訴訟では、この制裁は「金融上の死刑に等しい」と表現された。ICCでは職員への波及も出ており、制裁を懸念した上級職員6人が離職し、協力NGOが米国の口座から資金を移した(PBS・AP)。
米側の言い分と、指定の系譜
米国批判に走らないために、制裁する側の言い分も原文で置く。ルビオ国務長官は発表でこう述べた。「トランプ政権は、このいんちき裁判所(sham of a court)からアメリカ人を守るという揺るがぬ使命のもと、ICCのアカネ所長とセイェ上級公判弁護士を制裁する」「アメリカ人が、でっち上げの罪で裁かれるために海の向こうへ連れて行かれることは決してない」(Al Jazeera・訳は当サイト)。ICCがイスラエルのガザでの行動やアフガニスタンでの米軍の行動を捜査対象にしてきたことへの対抗である。
大統領令14203による指定は、2025年2月のカーン検察官(当時)に始まり、判事、次席検察官、国連特別報告者と広がって、赤根所長はその延長線上にいる。これまでにICCの検察官・判事ら10人以上が指定されてきた。前例のあるやり方が、初めて日本人に適用された、というのが8月18日の正確な位置づけである。なお前回2020年の制裁(ベンスダ検察官ら)は、バイデン政権が2021年4月に解除している。制裁は大統領令で始まり、大統領令で終わる——受け止める側も、制度で受け止めるしかない理由がここにある。
本人の呼びかけは、制裁の前から続いていた
時系列を正確に置く。7月27日、赤根所長はインタビューで、日本は「非常に強力な締約国の一つ」だとして、「アジアで抜ける国がないように働き掛けてもらいたい」と要請した(時事通信)。米政権が締約国に脱退を働きかけ、ベネズエラが脱退を表明していた時期である。制裁への備えとしては「欧州企業の利用や国連傷害保険の活用」を挙げていた。制裁の3週間前に、想定も対策も語っていたことになる。
8月21日、制裁指定を受けて文藝春秋を通じて出したコメントは、全文がこうである。
今回の私に対する制裁は、ある程度予期していたことで驚きはない。重要なのは、これを国際的な「法の支配」の終焉の始まりとさせないこと。日本と日本の皆様の支援が重要な鍵となるだろう。
── 赤根智子・ICC所長(2026年8月21日・文藝春秋を通じたコメント全文)
そして8月23日、NHKの電話インタビューで「存続確保に力を」と日本への期待を重ねた。1か月の間に3回、名指しで頼った先はいずれも日本である。さかのぼれば2025年3月には欧州議会の公聴会で、EUに保護(後述のブロッキング規則)を要請していた(EUobserver)。守ってくれる制度がある相手には制度の発動を頼み、制度がない日本には「支援」と「働きかけ」を頼んでいる——本人の頼み方自体が、制度の有無を映している。
政府の対応の記録。6日間で出たのは談話と「大変残念」
評価の前に、記録を置く。
| 日付 | 政府の対応 |
|---|---|
| 8月19日 | 外務報道官談話。「我が国は…ICCを一貫して支持してきています。このような立場から、今回の措置は大変残念です」「関係国等と意思疎通を取りつつ、国際社会における法の支配の強化に取り組んでいく」(全3項・原文) |
| 8月19日 | 高市首相が会見で「大変残念に思っております。これからもですね、米国を含む関係国と意思疎通を継続しながら対応してまいります」(官邸会見録・原文)。制裁の撤回を求めるかには言及なし |
| 8月20日〜24日 | 具体的な救済策・追加声明の発表は確認できない。各国の連帯表明が相次ぎ、国内では玉木雄一郎国民民主党代表が赤根所長とオンラインで面談した |
1月7日の表敬で政府が言ったのは「力強く支援していく」だった。8月19日に言ったのは「大変残念」だった。この2つの言葉は、どちらも公文書と会見録に残っている。この記事は2つを並べるところまでにする。「口先だけ」という評価は、ひろゆき氏が高市首相の1月の投稿を引用して「トップが口先だけだと、リスクを負って働く公務員は減る」と書き、92.8万インプ・RT4,087を集めた——という反応の事実だけを記録しておく。
守る制度は、あるのか。EUとの比較
EUには「盾」の法律がある。使われていないが、存在はする
EUには1996年から「ブロッキング規則」がある。米国の域外制裁に対して、①EUの企業・個人が従うことを禁止し、②被った損害を裁判で取り戻せるようにし、③米国の判決のEU内での効力を否定する、という三段構えの対抗立法である。現在の対象はキューバ・イラン関連の米制裁だけでICC制裁はまだ含まれていないが、2026年5月にはスペインのサンチェス首相が発動を公然と要求し、スロベニア・ベルギー・アイルランドが続いた。使うかどうかを政治が議論できる「盾」が、棚にある状態だ。
日本には、棚そのものがない
日本には、米国の域外制裁から自国の個人・企業を守る対抗立法が存在しない。だから日本政府が取り得る選択肢は、法律の外にある3つに限られる。①外交的な申し入れ(撤回・除外の要請。8月24日時点で行ったという発表はない)。②国内金融機関への方針の明示——国際政治学者の篠田英朗氏は「アメリカの大統領令に従う必要はないことを明示的に政府方針として示すべき」だと提言している。邦銀が萎縮して国内取引まで断る事態を防ぐ、いちばん実務的な一手である。③締約国との連携・共同対応(欧州はすでに動いている)。
「救済策を出せ」とこの記事は書かない。書けるのは、選択肢はこの3つがあり、8月24日時点でどれも使われたという発表がない、という事実までである。
ICCの台所と、日本の持ち分
日本はICCの最大の分担金拠出国である。外務省の資料(2026年2月版)によれば、分担率は約14.6%(2025年)で、2025年の予算に対する拠出額は約45.6億円。米国・中国・ロシアが非加盟のため、日本の比重が最も大きい。当サイトの8月19日の記事では拠出額を36億円と書いたが、外務省の最新の公表値はこの45.6億円である(数字は年・集計範囲で変わるため、以後は外務省の直近値を使う)。
次に確認できる日付も置いておく。ICC締約国会議(ASP25)は2026年12月7日から17日、ニューヨークの国連本部で開かれる予定だが、制裁とビザ制限を理由にハーグへの移転や分割開催を求める声が出ており、開催地は流動的である。この会議では次の裁判官選挙が行われる見込みで、日本政府は2025年11月、赤根氏の後任含みの候補として山内由光氏(国際司法協力担当大使)の指名をすでに決めている。赤根氏の判事任期は2027年3月に満了する。つまり、擁立→活躍→制裁→そして次の候補者の擁立、というサイクルは、もう回り始めている。
【論評】国が擁立した人を守る制度は、日本にはまだない
ここからは意見である。言い切りは1か所に絞る。
問題は「大変残念」という言葉の温度ではなく、その先に使える道具が日本にないことである。EUの当事者たちは「ブロッキング規則を発動しろ」と要求できる。日本では、何を発動しろと言えばいいのか——その名前を持つ制度が存在しない。国が閣議で了解して送り出し、首相が「力強く支援していく」と言った人が、同盟国の制裁でカードも口座も危うくなったとき、日本にできることが外交的な「意思疎通」しかないのだとしたら、それは今の政権の失点というより、制度の空白である。そしてこの空白は、赤根氏で終わらない。国連や国際機関で働く日本人は大勢いて、政府はいままさに次のICC裁判官候補を指名している。次に送り出される山内氏は、この空白を知った上で行くことになる。
米国批判にも走らない。制裁は大統領令という制度の実行であり、バイデン政権が2021年に前回の制裁を解除したのも、制度の実行だった。制度で殴られたものは、制度でしか受け止められない。日本にその制度を作るのか、作らないのか。9月からの臨時国会で誰かがこの質問をするかどうかを、次の確認点として見ておく。あわせて、政府の追加対応の有無、12月の締約国会議の開催地、そして赤根氏の任期満了(2027年3月)までの残り時間を追う。
この記事で使った資料と、その確度
確度が低いから使わない、という意味ではない。★2でも用途を限定すれば材料になる。
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