2026年8月17日、中国外務省の定例記者会見。報道官の林剣氏が、こう述べました。
「日本の敗戦降伏の日当日、高市早苗は『戦犯神社』に祭祀料を奉納し、日本の防衛大臣・小泉進次郎ら高官・政治家もまた参拝に赴いた」
この一文に、「靖国神社」という言葉が一度も出てきません。説明も注釈もなく、いきなり「戦犯神社」です。
中国のSNSでは翌18日、この呼称の変化が話題になりました。「外交部は数十年の慣例を破った」「正式に性格づけを行った」という解説記事が次々と出ています。
ただ、これは18日に突然起きたことではありません。今年の4月から、3段階で進んでいました。そして日本では、その経過を説明した記事がほとんど見当たりません。
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中国が、靖国神社と呼ぶのをやめた
まず、何が変わったのかを正確に押さえます。
去年までは、普通に「靖国神社」だった
比較の起点は、1年前です。2025年8月15日、石破茂首相が玉串料を納め、小泉進次郎農林水産相(当時)らが参拝したときの中国外務省の反応を見ます。
「靖国神社是日本军国主义发动对外侵略战争的精神工具和象征,供奉有对侵略战争负有严重罪责的14名甲级战犯」
(靖国神社は日本軍国主義が対外侵略戦争を発動するための精神的道具であり象徴であって、侵略戦争に重大な罪責を負う14名のA級戦犯が祀られている)
「靖国神社」という固有名詞をそのまま使っています。抗議のレベルも「厳正な申し入れ」にとどまり、「強烈な抗議」の語はありません。
2026年8月17日、名前が消えた
それが1年後、冒頭の発言になります。「靖国神社」も「いわゆる」も「事実上の」もなく、「戦犯神社」だけが単独で使われました。
中国のニュースサイトはこの変化を「改口」——言い換え、と表現しています。中国側でも、これが変更だと認識されているということです。
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4月から、3段階で進んでいた
では、いつから変わったのか。会見録をたどると、段階がはっきり分かれています。
最初は今年の4月、春の例大祭だった
確認できた初出は2026年4月21日の定例会見です。高市首相が春季例大祭に「内閣総理大臣」名義で供物を納めたことについて、報道官の郭嘉昆氏がこう述べました。
「靖国神社是日本军国主义对外发动侵略战争的精神工具和象征,是事实上的『战犯神社』」
(靖国神社は日本軍国主義が対外侵略戦争を発動するための精神的道具であり象徴であって、事実上の「戦犯神社」である)
この段階では、まだ「靖国神社」という名前を先に出し、そのうえで「事実上の」という限定を付けています。名前のレベルでは、まだ緩衝が残っていました。
8月15日に「いわゆる」が付き、17日に限定が外れた
終戦の日の8月15日、外務省は「答記者問」という形で談話を出します。ここで表現がもう一段動きました。
「所谓『靖国神社』是日本军国主义的精神工具和象征,其供奉的14名甲级战犯是发动侵略战争的罪魁祸首,是事实上的『战犯神社』」
(いわゆる「靖国神社」は日本軍国主義の精神的道具であり象徴であって、そこに祀られる14名のA級戦犯は侵略戦争を発動した張本人であり、事実上の「戦犯神社」である)
固有名詞に「いわゆる」が付きました。正式な名前として認めない、という意思表示です。そして2日後の17日、その「いわゆる」も「事実上の」も消えます。
| 時点 | 神社の呼び方 | 抗議の言葉 |
|---|---|---|
| 2025年8月15日 | 靖国神社(そのまま) | 厳正な申し入れ |
| 2026年4月21日 | 靖国神社+事実上の「戦犯神社」 | 強烈な抗議 |
| 2026年8月15日 | いわゆる「靖国神社」+事実上の「戦犯神社」 | 強烈な抗議 |
| 2026年8月17日 | 「戦犯神社」(単独・限定なし) | — |
中国のニュースサイトはこれを「わずか2日で、呼称が2段階進んだ」とまとめています。
※2026年4月より前に中国外務省が「戦犯神社」を使った例があるかどうかは、確認できていません。中国側の解説は「数十年の慣例を破った」「初」としていますが、過去の会見録すべてを検証したわけではないため、本記事では「確認できた初出は4月21日」と書いています。
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中国が本当に気にしていたのは、英語だった
この呼称変更について、中国側に興味深い記事があります。対外発信の実務者が書いたもので、「外務省が『戦犯神社』と言ったのを、外国メディアはどう翻訳したか」という題です。
「Yasukuni」は、英語では良い意味に聞こえる
その記事はこう指摘しています。「靖国神社」を英語にすると「Yasukuni Shrine」という字面の直訳になる。ところが「Yasukuni」の字義は英語圏では「preserve peace for the entire nation」(国を安んじる)と受け取られる——つまり「平和」「国家」といった中立、あるいは肯定的な語感を帯びてしまう、と。
だから直訳のままでは、英語圏に本質が伝わらない。そこに「見えない硝煙」がある、という書き方をしています。
実際の英語報道を、2つ並べている
その記事は、8月17日の英語報道を2つ対比させています。
ジャパンタイムズ
「Yasukuni — a memorial for those who died fighting for Japan」
(靖国——日本のために戦って死んだ人々を記念する場所)
英国の独立系メディア The Canary
「the war-crimes shrine」(戦争犯罪の神社)
「The infamous Yasukuni Shrine commemorates thousands of war-criminals who served in the brutal Imperial Japanese Army.」
(悪名高い靖国神社は、残虐な旧日本陸軍に属した数千の戦争犯罪人を祀っている)
そして西側の主流メディアが使う「controversial shrine」「divisive shrine」(議論を呼ぶ神社)という表現を、「曖昧で中立的なラベル」だと批判しています。
高市首相の「行かなかった」も、批判の対象になっている
もう一つ、この記事が問題にしているのが高市首相の対応を英語メディアがどう書いたかです。
高市首相は8月15日、参拝はせず、自民党総裁として私費で玉串料を納めました。英語メディアはこれを「did not visit」「shun」「skip」「stayed away from」と書いています。
中国側の記事は、これを「客観的に見えて、実は無形のうちに『理性的な自制』という虚像を作っている」と批判します。The Canary の記事から「参拝したようで、していない」という演出だ、という指摘も引いています。
締めくくりの一文は、こうです。
「语言是有力量的,尤其是那些敢于定性、直击本质的语言」
(言葉には力がある。とりわけ、性格づけを恐れず本質を突く言葉には)
呼び方を変えたのは、英語圏での言葉の主導権を取りにいく動きだ——中国側の実務者はそう位置づけています。
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そもそも、靖国神社とは何か
ここから先は、日本側の事実関係です。当時をリアルタイムで見てきた方も多いはずですが、日付と数字だけは正確に置いておきます。
1869年、明治天皇の意向で建てられた
靖国神社の始まりは明治2年(1869年)6月29日に建てられた「東京招魂社」です。明治12年(1879年)に「靖國神社」と改称され、別格官幣社になりました。
戦前は陸軍省と海軍省が管轄する特殊な神社でしたが、戦後は宗教法人になっています。国が運営しているわけではありません。ここが、あとで出てくる「公式参拝」の議論の根っこです。
祀られているのは246万6千余柱
靖国神社の公式説明によれば、御祭神の数は246万6千余柱。戊辰戦争、佐賀の乱、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、満洲事変、支那事変、大東亜戦争の戦没者が対象です。
この圧倒的多数が、戦地で亡くなった一般の兵士です。A級戦犯は14人。246万6千のうちの14です。この比率が、議論をややこしくしています。
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A級戦犯は、誰にも知らせずに合祀された
問題の中心はここです。そして、経緯は多くの人が思っているより長い。
始まりは1956年、厚生省だった
戦後、陸軍省と海軍省の復員業務を引き継いだのは厚生省でした。その厚生省が1956年から、靖国神社と「合祀事務協力」を始めます。誰を祀るかの名簿は、国の役所が作って神社に送っていたということです。
まずBC級戦犯からでした。1959年3月に厚生省が初めて名票を送り、4月に346柱が合祀されます。1967年10月までに、4回に分けて計984柱が合祀されました。
A級は、12年かけて合祀された
A級戦犯についても、1966年2月に厚生省が12名の名票を送っています。1969年1月には合祀することで合意ができていました。ただし、そのときの条件が「外部発表は避ける」でした。
実際に合祀されたのは1978年10月17日。当時の宮司・松平永芳が、松岡洋右と永野修身を加えた14柱を秘密裏に合祀しました。
そして公になったのは、翌1979年4月19日。朝日新聞の報道によってです。合祀から半年後、国民は新聞で知りました。
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1956年 | 厚生省が靖国神社との「合祀事務協力」を開始 |
| 1959年3〜4月 | 厚生省がBC級戦犯の名票を送付。346柱を合祀 |
| 1966年2月 | 厚生省がA級戦犯12名の名票を送付 |
| 1967年10月 | BC級戦犯の合祀が計984柱に |
| 1969年1月 | A級戦犯の合祀で合意。「外部発表は避ける」が条件 |
| 1975年11月21日 | 昭和天皇が最後の親拝 |
| 1978年10月17日 | 松平永芳宮司がA級戦犯14柱を秘密裏に合祀 |
| 1979年4月19日 | 朝日新聞の報道で公になる |
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昭和天皇は、1975年を最後に行かなくなった
この年表を見ると、ひとつのことに気づきます。
最後の親拝は、合祀の3年前
昭和天皇の最後の靖国神社親拝は、1975年11月21日です。A級戦犯の合祀は1978年10月。合祀の3年前が、最後になっています。
ではなぜ行かなくなったのか。長く憶測が語られてきましたが、2006年に材料が出ました。
富田メモ
2006年7月20日、日本経済新聞の朝刊が、元宮内庁長官・富田朝彦氏が残したメモを報じました。手帳14冊、日記帳13冊にわたるもので、そこに昭和天皇の言葉として、A級戦犯の合祀への不快感を示す記述があったとされます。
とくに松岡洋右と白鳥敏夫の合祀に触れた部分が注目されました。日本経済新聞社の研究委員会は2007年4月に「不快感以外の解釈はあり得ない」と結論づけています。
※富田メモには真贋をめぐる議論があります。歴史学者の秦郁彦氏、作家の半藤一利氏らが真実性を主張する一方、元外交官の岡崎久彦氏は「本物であるはずがない」とし、2020年には捏造とする著作も出ています。本記事では、メモの文言そのものは引用していません。原文にあたって確認できていないためです。
そして上皇陛下(平成の天皇)も、今上陛下も、靖国神社を参拝していません。
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首相たちは、どう対応してきたか
政治家の側を見ます。ここが今回いちばん、記憶と実際がずれやすい部分です。
三木武夫が、最初に8月15日に行った
1975年8月15日、三木武夫首相が終戦の日に参拝しました。首相としては初めてです。このとき三木は「私人としての参拝」であることを強調しました。合祀の3年前で、まだA級戦犯は祀られていません。
中曽根康弘が「公式参拝」をやり、1年でやめた
大きな転機は1985年8月15日です。中曽根康弘首相が、閣僚とともに公費から玉串料を支出する「公式参拝」を行いました。戦後の首相として初です。
政府・与党は翌年以降も続ける意向でした。しかし、1年で終わります。
9月に北京で大学生による反日デモが起き、中国外務省は「中国人民の気持ちを深く傷つけた」と非難しました。同年10月の秋季例大祭への参拝は、臨時国会と訪米準備を理由に見送られます。
そして1986年7月、経団連前会長の稲山嘉寛氏が訪中した際、中国側から参拝中止を強く求められました。当時の胡耀邦総書記の立場が危うくなる、という話でした。
中曽根氏自身が後に「正論」2001年9月号で、胡耀邦氏が追い落とされるリスクを受けて参拝を中止したと述べています。公式参拝は、たった1回で途絶えました。
小泉純一郎は、6年連続で行った
次の転機が小泉純一郎です。2001年8月13日を皮切りに、2006年8月15日まで、在任中6年連続で参拝しました。2005年10月17日の参拝は5回目にあたります。
この間、日中関係は冷え込みます。2005年には中国各地で大規模な反日デモが起きました。
安倍晋三は1回、そのあとは玉串料
2013年12月26日、安倍晋三首相が参拝しました。現職首相としては小泉以来7年ぶりです。
このとき、これまでと違う反応がありました。在日米国大使館が声明を出したのです。「米国は日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させる行動を取ったことに失望している」という内容でした。米国務省も同様の表明をしています。
中国・韓国だけでなく同盟国が「失望」と表明したことの意味は大きく、安倍首相はその後、在任中に再び参拝することはありませんでした。玉串料の奉納にとどめる形が、ここで定着します。
| 時期 | 首相 | 対応と結果 |
|---|---|---|
| 1975年8月15日 | 三木武夫 | 首相として初の終戦の日参拝。「私人として」を強調。合祀の3年前 |
| 1985年8月15日 | 中曽根康弘 | 戦後初の「公式参拝」。翌年から中止(胡耀邦総書記の立場を考慮したと本人が証言) |
| 1996年 | 橋本龍太郎 | 在任中に参拝 |
| 2001〜2006年 | 小泉純一郎 | 6年連続で参拝。2005年に中国各地で大規模な反日デモ |
| 2013年12月26日 | 安倍晋三 | 在日米国大使館が「失望している」と声明。以後は玉串料のみ |
| 2026年8月15日 | 高市早苗 | 参拝せず。自民党総裁として私費で玉串料を奉納 |
並べてみると、はっきりした流れがあります。1985年に一度だけ「公式」に踏み込み、中国の反応で引いた。2001年から6年間押し込み、2013年に米国の「失望」で止まった。そこから13年、首相は行っていません。
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では、A級戦犯だけ外せないのか
ここで、多くの人が一度は思う疑問に触れておきます。14柱だけ外せば済む話ではないのか。
神社側は「分けられない」と答えている
この案は、日本国内でも繰り返し議論されてきました。いわゆる分祀論です。
靖国神社は、2004年に見解を出しています。神道の考え方では、いったん合わせて祀った祭神を、あとから切り離すことはできない。神霊は名簿のように出し入れできるものではないという立場です。分けた前例もない、としています。
つまり、「A級戦犯だけ外す」という要求は、神社にとっては技術的に不可能な要求ということになります。政治が決めれば済む話ではない、というのが神社側の答えです。
もっとも、この説明には日本国内からも反論があります。1978年に「入れる」ことができたのに、なぜ「出す」ことだけができないのか。合祀そのものが厚生省の名簿にもとづく行政と神社の共同作業だったのだから、同じ手続きで戻せるはずだ、という指摘です。
この論争は、2006年ごろに自民党内でも一度盛り上がり、その後も総裁選のたびに顔を出します。そして毎回、結論が出ないまま流れています。
千鳥ヶ淵という、もう一つの場所
もう一つ、よく混同されるものを整理しておきます。千鳥ヶ淵戦没者墓苑です。
高市首相が8月15日の午前に献花したのは、こちらでした。
| 靖国神社 | 千鳥ヶ淵戦没者墓苑 | |
|---|---|---|
| 性格 | 宗教法人(神社神道) | 国の施設。無宗教 |
| できたのは | 1869年(東京招魂社) | 1959年3月28日 |
| 対象 | 霊を祀る(246万6千余柱) | 遺骨を納める(37万余柱・2023年時点) |
| 誰の | 氏名の判明した戦没者 | 身元不明・引き取り手のない遺骨 |
| 参拝の問題 | 政教分離・A級戦犯合祀 | いずれも起きない |
千鳥ヶ淵は、宗教施設ではありません。だから首相が行っても憲法上の問題は起きず、中国も反応しません。実際、外国の要人もここには来ます。
ただし、これで代わりになるかというと、そうはなっていません。千鳥ヶ淵は身元がわからない遺骨を納める場所であって、全戦没者を追悼する施設としては設計されていないからです。遺族会が靖国から離れられない理由も、そこにあります。
国立の追悼施設は、2002年に一度提言されている
では、無宗教の国立追悼施設を新しく作ればいいのではないか——これも、すでに一度、正式に検討されています。
小泉内閣の福田康夫官房長官が私的懇談会を作り、2002年12月24日に報告書が出ました。国立・無宗教・恒久的な追悼施設が必要である、という内容です。
しかし、実現していません。与党内と遺族会から強い反対が出て、報告書は棚に上がったままになりました。反対の理由はおおむね一つで、「靖国を捨てるのか」というものです。
結果として、この24年間、日本は代替案を作らないまま来ました。分祀もできない、代わりの施設もない、首相は行かない。その空白のまま、今年の8月15日を迎えたことになります。
「私費で玉串料」に、なぜこだわるのか
最後に、高市首相の「私費で玉串料」という言い方について。これは単なる言葉の綾ではありません。
1997年4月2日、最高裁大法廷が違憲判決を出しています。愛媛県が靖国神社の例大祭などに公金から玉串料を支出したのは、憲法の政教分離に反する——という判断でした。
この判決があるため、公費で玉串料を出すことは、事実上できません。「私費」「自民党総裁として」という断り書きは、この判決をよけるための定型句です。
1985年の中曽根の「公式参拝」も、同じ問題を意識した形でした。神道式の二礼二拍手一礼をせず一礼だけにし、玉串料ではなく献花料の形をとる。宗教行為ではないことにして踏み込むという工夫です。それでも中国が反応し、1年で終わりました。
つまり、歴代の首相が悩んできたのは二つの壁です。内には憲法の政教分離、外には中国と韓国。玉串料の「私費」という三文字には、その両方が畳み込まれています。
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2026年8月15日に、何が起きたか
そのうえで、今年の終戦の日です。
89人が参拝し、閣僚は4人
超党派の議員連盟「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」を中心に、89人の国会議員が参拝しました。
閣僚は4人です。小泉進次郎防衛相、黄川田仁志沖縄・北方担当相、城内実経済財政担当相、小野田紀美経済安全保障担当相。現職の防衛相が終戦の日に参拝するのは、2024年8月15日の木原稔氏以来です。
高市首相は参拝せず、自民党総裁として私費で玉串料を納めました。全国戦没者追悼式の前には千鳥ケ淵戦没者墓苑に献花しています。
自民党執行部が、そろって参拝した
そしてもう一つ、台湾メディアが指摘している点があります。鈴木俊一幹事長、有村治子総務会長、西村康稔選挙対策委員長がそろって参拝しました。
聯合新聞網は、これを「自民党執行部の集団参拝は初」と報じています。
中国の反応が、去年より速かった
同じ台湾メディアが、もう一点を挙げています。中国側の反応の速さです。
2025年は8月15日の夕方になってようやく反応が出ました。2026年は参拝から数時間以内、午前11時ごろには外務省が談話を出しています。
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日本では、どう報じられたか
では、この呼称の変化は日本でどう伝わったのか。
時事通信は書いていた
「日本では報じられていない」と書きたくなるところですが、それは不正確です。
時事通信は8月15日の記事で、「談話では、靖国神社を『事実上の《戦犯神社》』と表現」と明記しています。中国の新華社日本語版も同じ表現で伝えました。
ただし、8月17日の変化は誰も書いていない
問題は、そこから先です。「事実上の」が外れて「戦犯神社」が単独で使われた8月17日の発言について、その部分に触れた日本語の記事は確認できませんでした。
日経、時事、産経、TBSはいずれも同じ会見を報じています。ただし角度が違いました。すべて「高市首相の全国戦没者追悼式の式辞を中国が批判した」という切り口で、呼び方の変化には触れていません。
つまり、こういうことです。個々の発言は報じられている。しかし、4月から3段階で進んだ変化として説明した記事が、日本語には見当たらない。
中国側では、呼称の変更そのものが話題になった
もう一点。8月19日、中国のネット上では「外務省が呼び方を変えた」ということ自体が上位の話題になりました。
新浪などの記事は、これまでの「靖国神社」は日本語をそのまま持ってきた中立的な語にすぎず、「戦犯神社」に変えたことでその本質が露わになった——という説明をしています。日本では呼称の変化がほとんど記事にならなかった一方で、中国国内では変更そのものがニュースとして流通したことになります。
※このくだりは自媒体の集約ページによるもので、閲覧数などの具体的な数字は確認できていません。「中国側で何が話題になったか」の観測としてのみ使っています。
—
呼び方が変わる、ということ
最後に、この変化をどう見るかです。
中国側の実務者が書いていたとおり、これは英語圏での言葉の主導権をめぐる動きという側面があります。「Yasukuni」という音のままでは、英語圏で「国を安んじる」という語感になってしまう。だから「war-crimes shrine」と訳させたい。そういう計算です。
一方で、日本側から見れば、246万6千余柱のうち14柱を理由に、神社全体を「戦犯神社」と呼ばれていることになります。この非対称は、そう簡単には埋まりません。
ただ、事実として押さえておきたいことがあります。A級戦犯の合祀を決めたのは、日本人です。厚生省が名簿を送り、1969年に「外部発表は避ける」という条件で合意し、1978年に宮司が秘密裏に実行し、翌年に新聞が報じるまで国民は知らなかった。
そして昭和天皇は、合祀の3年前を最後に、二度と参拝しませんでした。
1985年に中曽根康弘が1年でやめ、2013年に安倍晋三が米国の「失望」で止まり、以後13年間、首相は誰も行っていません。その間ずっと、日本は「行かない」という選択を積み重ねてきたわけです。
その積み重ねの上で、相手は名前のほうを変えてきました。こちらが何をするかではなく、こちらを何と呼ぶかを変えてきた。4月に「事実上の」を付けて呼び、8月に「いわゆる」を付け、2日後に限定を全部外した。
次の定例会見で「戦犯神社」が定着するかどうかが、当面の見どころになります。
—
この記事で使った資料と、その確度
★が低いから使わない、という意味ではありません。★2でも、用途を限定すれば材料になります。何に使い、何に使わなかったかを右端に書きました。
| 確度 | 媒体 | 資料 | 評価の理由 |
|---|---|---|---|
| ★5 | 中国外務省 | 中国外務省「外交部发言人就日本政要参拜供奉甲级战犯的靖国神社答记者问」(2026年8月15日) | 当局の公式サイトに載った発言の原文。「所谓『靖国神社』」「事实上的『战犯神社』」という言い回しはここで確認した |
| ★5 | 中国外務省(在大阪総領事館 転載) | 「2026年8月17日外交部发言人林剑主持例行记者会」 | 8月17日に「戦犯神社」が限定語なしで使われたことの確認。外務省サイトと同一文面の在外公館掲載版 |
| ★5 | 中国外務省(在ロサンゼルス総領事館 転載) | 「2026年4月21日外交部发言人郭嘉昆主持例行记者会」 | 3段階の起点。4月の時点ですでに「事实上的『战犯神社』」が使われていたことの根拠 |
| ★5 | 靖國神社 | 靖國神社「靖國神社の由緒」 | 創建(1869年 東京招魂社)、1879年の改称、御祭神246万6千余柱という数字は神社自身の記載による |
| ★5 | 千鳥ヶ淵戦没者墓苑 | 千鳥ヶ淵戦没者墓苑 公式サイト | 墓苑の性格と運営主体。靖国神社との違いの整理に使用 |
| ★5 | 内閣官房(報告書全文) | 「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」報告書(2002年12月24日) | 国立追悼施設の提言があった事実と日付。データベース「世界と日本」に収録された全文 |
| ★4 | 靖國神社(戦友連サイト掲載) | 「所謂A級戦犯分祀案に対する靖國神社見解」(2004年) | 分祀を否定する神社側の論理。ただし転載であり、神社公式サイトの原文は確認していない。あくまで神社側の主張として扱った |
| ★4 | nippon.com | nippon.com「靖国神社と戦犯 合祀に至る道」 | 1959年のBC級合祀、1966年の名票送付、1969年の合意、1978年10月17日の合祀という年表はここによる |
| ★4 | 時事通信 | 時事通信「超党派約90人が靖国参拝」(2026年8月15日) | 日本語で「事実上の『戦犯神社』」に触れた数少ない記事。ただし短信で、見出しには入っていない |
| ★4 | NHK | NHK「終戦の日 超党派議員89人が靖国神社参拝 小野田経済安保相も」 | 89人という数字はここによる |
| ★4 | 日本経済新聞 | 日本経済新聞「小泉防衛相が靖国神社を参拝 城内・黄川田・小野田氏も、終戦の日に」 | 閣僚4人の氏名の確認 |
| ★3 | 凤凰网(外宣微記/文刀) | 凤凰网「外交部提『战犯神社』,外媒是怎么翻译的?」(2026年8月18日) | 呼称変更の動機を英語圏対策として説明した記事。本記事の「英語だった」という見立ての中心的な根拠。ただし個人コラムであり、政府の公式説明ではない |
| ★3 | 聯合新聞網(台湾) | 聯合新聞網「包括防相小泉進次郎 日本自民黨高層首度集體參拜靖國神社」 | 自民党執行部の集団参拝が「初」だという指摘はここによる。日本語報道には見当たらない角度 |
| ★3 | 聯合新聞網(台湾) | 聯合新聞網「日高層集體參拜 陸外交部:靖國神社是事實上的戰犯神社」 | 中国側の反応の速さの比較に使用 |
| ★3 | 愛媛県靖国神社玉串料訴訟(Wikipedia) | 愛媛県靖国神社玉串料訴訟(Wikipedia) | 1997年4月2日の最高裁大法廷違憲判決という事実関係の確認のみに使用。判決文そのものは読んでいない |
| ★3 | 千鳥ケ淵戦没者墓苑(Wikipedia) | 千鳥ケ淵戦没者墓苑(Wikipedia) | 1959年3月28日竣工、37万485柱(2023年5月時点)という数字はここによる |
| ★2 | 新浪新闻 | 新浪新闻「外交部改口,冲上热搜第一!」(2026年8月19日) | 中国国内で呼称変更自体が話題になったという観測のみに使用。閲覧数などの数字は記載がなく、裏取りできていない |
| ★2 | 新浪新闻 | 新浪新闻「外交部发言人改称靖国神社为战犯神社:外交措辞升级」 | 同上。中国側の自己解説として読んだだけで、事実の裏取りには使っていない |
| ★2 | 日本経済新聞(2006年7月20日朝刊) | いわゆる「富田メモ」の報道 | 真贋をめぐる議論があるため、本文では文言を引用していない。「昭和天皇が合祀に不快感を示したとされる記録が2006年に報じられた」という事実の存在のみに使用 |
関連(当サイト既報)
同じ8月15日、中国のSNSでは日本の国会議員の参拝が最大の話題になっていました。中国出身で日本国籍を取得した石平参院議員が靖国神社を参拝し、微博の熱捜で1位になった件は、当サイトで別途扱っています。「漢奸」という言葉が本人に向けられた経緯と、中国が2025年に発動した制裁の中身については、そちらを参照してください。



