ホーム ニュース 「報道の自由」はSNSに…
ニュースメディア

「報道の自由」はSNSに移った──不自由なテレビ報道は、ただの動画素材になる

関心度 ★★★★☆ 信頼度 ★★★★☆ 賛否度 ★★★★☆

2024年の兵庫県知事選のあと、BPOにはこんな意見が540件も寄せられた。「テレビ各局が報じていた内容が、インターネットによってウソだと分かった」。

かつてテレビは情報の頂点にいた。いま、テレビの映像はSNSで切り抜かれ、検証され、突っ込まれる「素材」として消費されている。ニュース番組の一場面が、個人の検証動画の材料になる時代である。

なぜテレビはここまで信頼を失ったのか。調べていくと、「偏向しているから」という答えでは浅いことが分かる。本質はこうだ。日本のテレビは構造的に「報道の自由」を行使できない仕組みの中にいる。自由のない報道は報道ではない。だから視聴者は、テレビを報道としてではなく、数ある動画素材の一つとして扱い始めたのである。

報道の自由を「使えない」四重の鎖

第一の鎖──政府が握る放送免許

報道の自由とは本来、権力からの自由を意味する。ところが日本の地上波テレビは総務省の免許事業であり、数年ごとの再免許で政府に生殺与奪を握られている。権力を監視すべき機関が、権力に営業許可を握られている──この時点で、教科書的な「報道の自由」は構造として成立していない。新聞社と一体化したテレビ局が国の管理下に置かれるこの形は、世界に例のない特異な構造と指摘されている。

第二の鎖──クロスオーナーシップ

読売と日本テレビ、朝日とテレビ朝日、フジと産経。日本では新聞社とテレビ局が資本で一体化しており、系列内で相互批判ができない。新聞がテレビを検証せず、テレビが新聞を検証しない。多様性の喪失を理由に先進国では規制されるのが普通のこの形態が、日本では業界標準である。

第三の鎖──記者クラブ

官庁や政党に置かれた記者クラブは、大手メディアだけが情報源を独占し、フリーや外国人記者を排除する仕組みだ。結果、各社の報道は発表内容の横並びになり、「独自に調べて権力を疑う」より「発表を正確に伝える」ことが仕事になる。

第四の鎖──スポンサーと広告代理店

民放の収入は広告であり、大口スポンサーと大手代理店に不都合な話題は扱いにくい。報道番組であっても、その電波料を払っているのは視聴者ではなく広告主である。

免許は政府に、資本は系列に、情報源はクラブに、財布はスポンサーに握られている。四方向から鎖につながれた機関に、「自由な報道」は物理的に不可能なのだ。

偏向は思想ではなく、構造の産物である

それでも「意図的な偏向」は史実として存在する

構造の話だけでは済まない実例もある。1993年の椿事件だ。テレビ朝日の椿貞良・取締役報道局長が、民放連の会合で「非自民政権が誕生するよう報道せよ」と指示した趣旨の発言をしたと報じられ、国会の証人喚問にまで発展した。放送免許の取消しが真剣に議論され、この事件を機にBPO(放送倫理・番組向上機構)が設立された。

偏向報道は「陰謀論」ではない。少なくとも一度は、報道トップの発言として国会で追及された史実である。

四重の鎖が生む「無自覚の偏り」

ただし、日常の偏向はもっと静かに起きる。免許を握る政権与党との距離感、系列新聞の論調、クラブで共有される「相場観」、スポンサーへの配慮──これらが重なると、誰かが指示しなくても、報じるもの・報じないものは自然に揃っていく。偏向の大半は悪意ではなく、この構造の中で真面目に働いた結果なのである。

局内の良心は、構造に潰される

森友スクープ記者はなぜNHKを辞めたか

「局内にも不満を持つ人はいるはずだ」──その通りで、実名の証言が存在する。NHK大阪の相澤冬樹記者は森友事件のスクープを連発したが、原稿は政権との関連を薄める方向に手を入れられ続け、2018年、記者職から考査部門への異動を命じられた。事実上の左遷である。相澤氏は退職し、文藝春秋から「安倍官邸vs.NHK 森友事件をスクープした私が辞めた理由」を出版。組織の内側で何が起きるかを当事者として記録した、第一級の暴露である。

2015年、看板キャスターは一斉に消えた

象徴的な事件は他にもある。2015年から16年にかけて、報道番組の看板が立て続けに消えた。

テレビ朝日「報道ステーション」ではコメンテーターの古賀茂明氏が降板。古賀氏は最後の出演回の生放送中に「局の自主規制の背後に官邸の圧力があった」と暴露し、古舘伊知郎キャスターと画面上で口論になった。楽屋のやり取りの録音まで飛び出す異例の泥仕合は、視聴者が「圧力」の存在を生で目撃した瞬間だった。

同時期、TBS「NEWS23」の岸井成格アンカーも降板した。安保法案を「憲法違反であり廃案に向けて声を上げ続けるべきだ」と番組で発言した後、「放送法遵守を求める視聴者の会」が全国紙に「放送法違反だ」とする意見広告を打ち、その数ヶ月後の降板だった。NHKでは「クローズアップ現代」の国谷裕子キャスターが23年務めた番組を降板。海外メディアはこれらを並べて「安倍政権下の日本では放送関係者に政治的圧力がかかっている」と報じた。久米宏氏は国谷氏の降板について「あの会長じゃなかったら降板してなかった」とまで語っている。

一人ひとりの降板には局の説明がある。だが看板キャスターが同時期に揃って消え、後任がより「無難」になっていく光景は、四重の鎖が人事という形で作動するさまを国民に見せてしまった。

「中の人」たちは書籍で告発し続けている

組織を出た人間の証言も、実は積み上がっている。テレビ朝日に27年在籍した元プロデューサーの鎮目博道氏は「腐ったテレビに誰がした?」で、スポンサーへの忖度、番組予算の削減、ワイドショーのニュース番組化といった内側の構造をまとめて検証した。前述の相澤氏の「安倍官邸vs.NHK」と併せ、「局内に不満を持つ人間は少なくない」という推測は、当事者の実名書籍によってすでに裏付けられている。問題は、彼らが組織を辞めてからしか語れないことだ。

フジテレビ──内部の不満が経営を倒した日

2025年のフジテレビ問題では、中居正広氏の性加害疑惑への経営対応をめぐり、社内からも公然と批判が噴出した。10時間を超える異例の記者会見、港浩一社長の辞任、第三者委員会の設置、そして損害は約453億円。フジは旧経営陣に50億円の損害賠償まで請求した。

これが示したのは、局員の良心が存在することと同時に、それが表に出るのは経営が崩壊する局面だけだという現実だ。平時の良心は、相澤氏のように人事で処理される。

転換点は三度あった

第一の転換点は1993年の椿事件。偏向が「あり得ること」として可視化された。

第二の転換点は2024年の兵庫県知事選。テレビの報道とネットの情報が真っ向から食い違い、「テレビのウソがネットでわかった」という視聴者の声がBPOに殺到した。ただし公平を期せば、「SNSの勝利」という単純な図式には検証を求める論者もおり、SNS側にも誤情報は氾濫していた。確かなのは、テレビが「唯一の審判」の座を降りたことだ。

そして第三の転換点が2025年のフジ問題である。ここで起きたことの本質は視聴率の低下ではない。スポンサー100社以上が、視聴率ではなく「世論」を恐れて一斉に逃げたことだ。テレビの収益を支える側が、テレビよりSNS上の世論を上位に置いた瞬間であり、カネの流れが構造の外側に主導権を明け渡した日と言っていい。

海外は違う──「公平の強制」をやめた国、政府から免許を引き離した国

アメリカ:偏向を「隠さない」という自由

日本の構造が世界標準なのかといえば、まったく違う。

アメリカは1987年、レーガン政権下でFCC(連邦通信委員会)が「フェアネス・ドクトリン(公平原則)」を廃止した。以来、放送局が政治的立場を公言することは自由である。FOXニュースは徹底した保守、MSNBCは徹底したリベラル、CNNは反トランプ──各局が旗色を鮮明にし、視聴者は「偏っていること」を前提に選ぶ。

これは一見危うい仕組みだが、思想としては一貫している。国家が「何が公平か」を審査する方がよほど危険であり、多様な偏りが競争すれば全体として言論は均衡する、という発想だ。偏向を禁じるのではなく、偏向を隠すことを許さない。立場を明示した上で競うアメリカ型は、「公平中立」を掲げながら静かに偏る日本型の、ちょうど裏返しである。

イギリス:政府と放送局の間に「独立機関」を挟む

公共放送の国・イギリスは別の解を持つ。BBCの独立は王立憲章(Royal Charter)で制度的に保障され、放送全体の監督は政府から独立した規制機関Ofcomが担う。政府が直接免許を握って放送局を指導する日本の形とは異なり、権力と放送の間に必ず緩衝材を挟む設計だ。

もちろんBBCも公平性違反でOfcomの裁定を受けるなど無謬ではない。だが「政府の一部門(総務省)が放送免許と行政指導の権限を直接持つ」日本の形が、先進国では例外的であることは押さえておきたい。

世界66位という通信簿

この差は国際評価に表れている。国境なき記者団の世界報道自由度ランキング2025で、日本は180カ国中66位、G7最下位。名指しで問題視されたのは、まさに本稿で見てきた記者クラブ制度と、政府・企業への忖度による自己検閲だ。首位ノルウェーをはじめ上位国に共通するのは、権力とメディアの距離が制度で保証されていることである。

つまり「四重の鎖」は日本の宿命ではなく、解いた国が現実に存在する設計上の欠陥なのだ。

テレビは「報道」から「動画素材」へ

こうして現在地を見ると、テレビの位置づけは静かに、しかし決定的に変わっている。

視聴者はもうテレビを「真実を教えてくれる装置」として見ていない。国会中継の切り抜き、会見のノーカット動画、番組の一場面──テレビ発の映像は、SNSで検証され、比較され、ツッコミを入れられる一次素材として流通している。YouTubeやTVerに切り出された時点で、テレビ番組は無数の動画コンテンツの一つに過ぎず、個人の解説動画と同じ土俵で「どちらが信頼できるか」を競わされている。

これは歴史の反復でもある。かつて新聞は情報の王者だったが、速報性でテレビに敗れ、「翌朝に詳報を載せる二番手」へと席を譲った。いまテレビが座らされているのは、まさにあの日の新聞の椅子だ。速報はSNSに奪われ、検証は個人に奪われ、残ったのは「あとから整理して流す旧メディア」という役割。新聞→テレビ→SNSと、主役の座席は約半世紀ごとに入れ替わっている。テレビだけが例外でいられる理由は、どこにもなかった。

では、報道の自由はどこへ行ったのか。SNSに移ったのである。免許も系列も記者クラブもスポンサーも持たない個人は、四重の鎖のどれにも縛られていない。忖度なく調べ、発信し、テレビの映像を検証できる。「権力に縛られず自由に報じる」という報道の自由の定義に照らせば、いまそれを実際に行使しているのはテレビではなくSNSの側だ。もちろん誤情報も氾濫するが、「自由」とは本来そういう混沌を含むものである。

皮肉なことに、記者クラブと電波と取材網という「報道の特権」はまだテレビの手元に残っている。消えたのは自由と信頼だけだ。特権を持った動画素材供給業──それが、報道と呼ばれてきたものの現在の姿である。

まとめ──報道の自由は、自由である者にしか使えない

「報道の自由」はメディアが権力と戦うための盾だったはずだ。だが免許を政府に、資本を系列に、情報源をクラブに、財布をスポンサーに握られた機関に、行使できる自由は残っていない。自由を使えない者が「報道の自由」を叫ぶとき、それは盾ではなく、特権を守るための看板になる。

報道の自由は消えたのではない。持ち主を替えたのだ。鎖につながれたテレビから、縛られない無数の個人へ──兵庫県知事選もフジ100社撤退も、その所有権移転の記録として読める。

テレビが再び「報道」に戻る道があるとすれば、それは四重の鎖のどれかを自ら断ち切ることだろう。それができないなら──良質な動画素材の供給元として、検証する側に主役を譲るしかない。

※本稿は公開情報・報道に基づく論評です。個別の番組・個人の意図を認定するものではなく、情報の真偽は読者各自でご判断ください。

主要ソース

構造(免許・系列・記者クラブ)

椿事件

内部告発・局内の不満

海外メディアとの比較

兵庫県知事選とフジテレビ問題

🌿 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

コメンテーター1号

ネットの記事にコメントするだけです。