2024年、2025年、そして2026年。三年連続で春闘の賃上げ率が5%を超えた。連合の発表のたびに「歴史的な賃上げ」という見出しが躍り、政府は「賃金と物価の好循環が実現しつつある」と胸を張る。しかし、あなたの財布の中身は、本当に三年前より豊かになっているだろうか。
答えが「ノー」だとしても、それはあなたの気のせいではない。数字の裏に仕掛けられた罠がある。
「5%の賃上げ」が実質賃金をなぜ増やさないのか
名目賃金と実質賃金の違いを知っているか
報道される「5%の賃上げ」は名目賃金の上昇率だ。つまり、額面上の給与が増えたという話にすぎない。問題は、同じ期間に物価がそれ以上に上がっていたという現実である。
厚生労働省の毎月勤労統計調査によれば、2023年から2024年にかけて、名目賃金は伸びたにもかかわらず、実質賃金は24か月以上にわたってマイナスを記録し続けた。2025年に入ってようやくプラスに転じる月も出てきたが、その水準はかろうじてゼロをわずかに上回る程度にとどまった。
計算は単純だ。賃金が5%上がっても、物価が6%上がれば、生活水準は実質的に下がる。「賃上げ」という言葉が、実態を覆い隠すベールとして機能している。
物価上昇の現実──食卓と光熱費と家賃
「物価が上がった」という感覚は、統計以前に日常生活の中で体感されている。
食料品の値上がりはすさまじかった。2022年以降、食用油・小麦粉・乳製品・冷凍食品が軒並み値上がりし、2024年以降もその水準は高止まりしている。スーパーのレシートを三年前と比較すれば、同じ買い物をしているのに支払額が1割から2割増えていることに気づくはずだ。
光熱費も同様だ。電気・ガスの料金は、エネルギー価格の高騰と円安の影響を直撃として受けた。政府の電気代補助は一時的な緩和策にすぎず、補助が縮小されるたびに請求額が跳ね上がった。
住居費は、特に都市部で深刻だ。東京・大阪・名古屋などの主要都市圏では、2023年以降に賃貸物件の家賃相場が上昇傾向を強めている。「賃上げで豊かになった」はずの人々が、より高い家賃を支払うことで、その上昇分を吸い取られている。
大企業と中小企業──春闘の恩恵は誰に届くのか
「5%超え」は大企業の話だ
春闘の数字には、重大な前提がある。それは、集計対象の大半が大企業・組合加入企業であるという事実だ。
連合(日本労働組合総連合会)の傘下に入っているのは、主として大企業の正規労働者だ。トヨタ、ソニー、三菱商事といった名だたる企業が春闘で5%以上の賃上げを行い、それが「歴史的賃上げ」として報道される。しかし、日本の雇用の大半を支えているのは中小企業である。
中小企業庁のデータによれば、日本の企業数の99%以上が中小企業であり、全従業員の約70%が中小・中堅企業に勤めている。その中小企業での賃上げ率は、2024年・2025年春闘においても2〜3%台が精一杯というのが実態だった。
なぜ中小企業は賃上げできないのか
中小企業が賃上げできない理由は、経営者の意地悪でも怠慢でもない。構造的な問題だ。
第一に、価格転嫁ができない。大企業が原材料費・人件費の上昇を製品価格に転嫁できるのに対し、取引先(多くは大企業)から「コスト削減を続けろ」というプレッシャーをかけられている中小企業は、仕入れ値が上がっても販売価格を上げにくい。利益が圧迫され、賃上げの原資が生まれない。
第二に、人手不足と採用難のジレンマがある。賃上げしなければ人が集まらないが、無理に賃上げすれば経営が傾く。特に製造業・建設業・物流業などの中小企業では、この板挟みが深刻だ。
第三に、生産性の向上が追いつかない。賃金を持続的に上げるためには、労働生産性の向上が必要だ。しかし、デジタル化投資や設備更新に資金を回す余裕がない中小企業では、生産性の向上は掛け声だけで終わることが多い。
誰が得をして、誰が損をするのか──4つの現実
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✅ 恩恵あり 大企業・正社員 賃上げ率:5〜7%台
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⚠️ 限界ギリギリ 中小企業 賃上げ率:2〜3%が精一杯
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❌ 春闘の外 非正規・パート・フリーランス 雇用者の約38%が対象外
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📉 インフレに負ける 家計全体 実質賃金は24か月超マイナス
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非正規・パート・フリーランス──春闘の「外側」にいる人たち
労働者の4割が春闘の恩恵を受けていない
日本の雇用者のうち、非正規雇用(パート・アルバイト・派遣・契約社員・嘱託)の割合は約37〜38%に達している(総務省労働力調査)。この人々の多くは、春闘の交渉テーブルに座る労働組合に加入していない。
最低賃金の引き上げは非正規労働者にも影響するが、その上昇幅は春闘の賃上げ率に遠く及ばない。2024年度の最低賃金は全国加重平均で初めて1000円を超えたが、それでも物価上昇のペースに追いついていない地域が大多数だ。
フリーランスは「物価上昇だけ」を受け取る
さらに深刻なのが、フリーランスや個人事業主だ。彼らには最低賃金の保護もなければ、春闘の恩恵もない。クライアントとの契約単価を引き上げるには、個人で交渉するしかないが、「値上げを言い出しにくい」という心理的障壁と、「代わりはいくらでもいる」という買い手側の優位性の前に、単価は据え置かれることが多い。
インフレは彼らにも等しく牙をむく。しかし、それを補填する仕組みは何もない。
「賃金と物価の好循環」という説明の危うさ
政府・日本銀行が繰り返し使う「賃金と物価の好循環」というフレーズは、表向きには美しい。賃金が上がれば消費が増え、企業の売上が伸び、さらなる賃上げが可能になる──というサイクルだ。
しかし、この説明には重大な前提が隠れている。それは、賃金上昇が物価上昇を上回ることだ。実際には、輸入物価の上昇(円安による)や資源価格の高騰がインフレを先導しており、賃上げはそれを後追いしているにすぎない。
「好循環」というより、「追いかけっこ」だ。賃金が物価に追いつく前に、また次の物価上昇が始まる。政府の説明は、そのタイムラグを意図的に無視しているか、楽観的すぎる前提に立っている。
また、「好循環」が恩恵をもたらすのは、繰り返しになるが、大企業の正規雇用労働者に偏っている。非正規・中小企業・フリーランスという「周縁」にいる人々にとっては、「好循環」は絵に描いた餅だ。
日本銀行の利上げが「家計」に与える新たな打撃
2024年以降、日本銀行はゼロ金利・マイナス金利政策から転換し、段階的な利上げを実施した。市場はこれを「正常化」と受け止めたが、住宅ローンを抱える家庭にとっては別の話だ。
変動金利型の住宅ローンを組んでいる人は、利上げのたびに返済額が増加する。日本では住宅ローンの約7〜8割が変動金利型とされており、利上げの影響は広範囲に及ぶ。
賃金が5%上がっても、住宅ローンの返済額が月に数千円から数万円単位で増加すれば、手元に残る可処分所得は増えるどころか減ることもある。「賃上げ」の数字が大きく見えても、家計の現実は別の方程式で動いている。
本当の意味で給料が上がるために必要なこと
では、何が変われば「賃上げ」が本物になるのか。いくつかの論点を整理しておきたい。
① 中小企業の価格転嫁を可能にする商慣行の改革
大企業が取引先の中小企業に対してコスト削減圧力をかけ続ける慣行は、賃上げの構造的な障害だ。下請け法の強化や、公正取引委員会による監視の実効性を高めることが不可欠だ。
② 非正規・フリーランスへの制度的保護の拡充
最低賃金の大幅引き上げ、フリーランス保護新法の実効性確保、社会保険適用の拡大が必要だ。「働き方の多様化」を推進しながら、セーフティネットが追いついていない現状は矛盾している。
③ 生産性向上への実質的な投資支援
中小企業がデジタル化・自動化に投資できるよう、補助金・税制優遇・低利融資の組み合わせによる実効的な支援が求められる。掛け声だけの「DX推進」では何も変わらない。
④ インフレに強い家計設計の自衛策
制度が変わるのを待つだけでは生活が守れない。資産運用・副業・スキルアップによる収入源の多様化が、個人レベルでの現実的な対応策になりつつある。
まとめ──「賃上げ」の見出しに騙されないために
春闘5%超という数字は、一面では日本経済の変化を示す事実だ。しかし、その数字が届く人と届かない人の格差、物価上昇との実質的な相殺、金利上昇という新たな負担──これらを総合して見なければ、「賃上げ」の実像は見えてこない。
数字は嘘をつかない。しかし、数字の使い方は、しばしば現実を歪める。「賃上げ5%」という見出しの下に、何が書かれていないかを読む力が、今こそ必要とされている。
あくまでも個人の見解です。