高齢者事故は“個人のミス”ではない ― 日本が「運転をやめられない社会」に設計された理由

高齢者事故は“個人のミス”ではない ― 日本が「運転をやめられない社会」に設計された理由

#高齢者事故 #免許返納の罠 #交通インフラ設計 #日本の構造問題


日本では「高齢者による痛ましい事故」が発生するたびに、「免許返納を促そう」「判断力が落ちているのだから仕方ない」といった反応が繰り返される。
しかし、この問題は単なる“個人の判断ミス”として処理していい段階を、すでに超えている。

本来であれば、一定年齢以上の運転は法的に制限されるべきだ。
それにもかかわらず、日本では「自主返納」という実質的な放置策だけが提示されている。

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データが示す“高齢者事故の異常な比率”

最新の統計によると、日本の総人口のうち65歳以上が占める割合は約29%
しかし、交通事故による死亡者のうち高齢者が関与する割合は実に50%を超える
さらに重大事故(死亡・重傷)に限れば、高齢者ドライバーによるものが3割以上を占める。

人口3割 → 事故死半数超
これは、単なる高齢化の影響ではなく構造的な異常である。

それにもかかわらず、日本では高齢者の運転を強制的に制限する法整備は一切行われていない。
「返納はご本人の判断に任せます」という責任逃れの言葉だけが行政によって繰り返される。

本来は“義務化”されるべき高齢者運転の段階的制限

高齢者の判断力低下が明確なデータとして存在するにも関わらず、日本では免許制度が若者と同じ枠組みで運用されている。
本来であれば、70歳・75歳・80歳などの段階で、自動的に「運転可能区域の縮小」「夜間運転禁止」「高速道路禁止」などの制限がかかるべきだ。

欧州では75歳以降、免許更新のたびに実技試験が義務とされている国もある。
ところが日本では「講習を受ければ更新できる」だけの形式的処理にとどめられている。

結論:日本の高齢者事故は“仕方のない悲劇”ではなく、“規制しなかった政治による設計ミス”である。

免許返納が進まない本当の理由 ― 「車を手放せない社会設計」

高齢者の運転を巡る議論では、必ず「返納すればいい」「家族が止めるべき」という声が上がる。
しかし、地方を中心にした現実の生活圏を見れば、“返納すれば終わり”という話ではないことがわかる。

日本の地方都市は、明確に「車を前提とした都市設計」になっている。
病院、スーパーマーケット、役所、ショッピングモール――これらの施設は駅前ではなく幹線道路沿いに置かれてきた。

駅前→空洞化 / バイパス沿い→商業集積
「歩ける街」ではなく「車で移動する街」に再編された

つまり、免許返納=生活インフラからの切断を意味する。
その構造を放置したまま「返納しろ」と言うのは、実質的に“生きるな”と言っているのと同じだ

タクシーやバスは代替にならない理由

「公共交通を使えばいい」という意見もあるが、既に地方路線バスは8割以上が廃止・縮小され、
タクシーも高齢者が日常利用できる価格体系ではない
さらに、タクシーは都市圏でも不足、地方では迎車に40分以上かかる地域も珍しくない。

移動手段が存在しない状態で「自己判断で免許を返せ」と迫る――
これ自体が政策による構造的な矛盾なのである。

この生活インフラ問題を無視したまま「返納の啓発」だけが進む構図は、
高齢者個人の判断に責任を押し付ける“政治の逃げ”と言える。

解決策は存在した ― しかし「代替交通」は政治的に潰された

ここまでの前提で明らかなように、高齢者の運転を規制するには「代わりの移動手段」を用意することが前提となる。
では、代替手段は本当に存在しなかったのか?

結論から言えば――存在した。だが日本は「導入しなかった」のではなく「導入させなかった」。

Uber、Lyft(米)、Waymo(Google)、そしてTeslaの自動運転タクシー。
これらのサービスは既にアメリカ・中国・シンガポールでは高齢者の移動支援にも使われている

Uberの「高齢者ケア向けライドシェア」モデルは海外で実用化済み
→ 日本だけが「安全性」「白タク禁止」の名目で封鎖

なぜ日本だけUberが“事実上禁止”なのか?

日本ではUberは「配車アプリ」しか提供できず、一般人が乗客を運ぶライドシェア機能は違法となる。
道路運送法における“白タク規制”が、Uber本来の機能を封じているからだ。

この規制の背景には、タクシー業界とそれを支持基盤に持つ政治勢力(とりわけ国交相ポストを握る公明党)が存在する。

Uberがフル機能で参入=タクシー業界の構造崩壊
→ 公明党・国交省ラインが全力で封鎖
→ 結果、高齢者は「Uberに乗る」ではなく「自分で運転する」しか選べない社会が維持される

これは偶然ではない。
高齢者が運転を続けるしかない社会を政策的に維持することで、既存の交通利権構造(タクシー・道路特定財源・免許講習ビジネスなど)を守っている。

Uberが解禁されていれば、高齢者事故は構造的に減っていた

Uberが本来の形(一般ドライバーによるライドシェア)で導入されていれば、
高齢者が自宅から病院・スーパーへ移動するために「自分で運転する」必要はなくなる。
世界では既に「高齢者専用Uber」「高齢者ケア向けMaaS」といったモデルが実用化されている。

Uber Health(米国)
高齢者・通院者向けに、病院とUberを提携させる移動支援モデル。
→ 高齢者の「自家用車依存率」が大幅に減少。

だが日本では同じことは不可能。
ライドシェアを行えば「白タク行為」として道路運送法違反となり、罰金・免許取消の対象になる。

つまり「海外では既に存在する解決策」を、日本は法制度によって封印している。

なぜ法改正が一切進まないのか ― 公明党と国交省の支配構造

国交省(国土交通省)は過去20年のうち大半の期間で公明党が大臣ポストを握っている。
タクシー業界と公明党は長年の繋がりがあり、業界団体は選挙協力・票動員の見返りに規制維持を要求する。

Uber=タクシー業界破壊 → 公明党の票田崩壊
だからライドシェアは“安全性”を理由に永久に議論中というステータスに固定される。

こうして「高齢者が車を手放せないインフラ構造」「代替交通を封鎖した政治」が結びつき、
“運転しなければ生きられないのに、運転をやめさせない”という矛盾した社会設計が維持されている。

結論 ― 高齢者事故は「運転を続けさせる社会設計」の帰結である

ここまで整理すれば、高齢者事故は「判断力の衰え」だけでは説明できないことが明らかになる。
本質は、高齢者が車を手放せないように都市と交通政策が組まれているという点にある。

◆ 免許返納は“本人の自由” → 政治は規制を避ける
◆ 車依存型の都市構造 → 車を手放すと生活不能
◆ Uber・MaaSは封鎖 → 代替手段は意図的に潰される
= 運転を辞める選択肢そのものが存在しない

「高齢者は危ない」という言葉で終わらせるのは簡単だ。
しかし、その一言によって“なぜ危険な状態が維持されているのか”という根本構造への視点が失われる。

本来ならば――
「高齢者の運転を義務的に縮小する」
「代替交通を制度化する」
「道交法を年齢別に再編する」

といった政策が議論されるべきである。

だが現実には、国交省・タクシー業界・政治勢力の利害によって、代替案そのものが封じ込められている。

高齢者がハンドルを握り続ける日本は「そうなるように作られた国」である。

そして、この「代替交通を拒む政治構造」の最も象徴的な例が――
Uber封鎖である。

次の第2部では、なぜUberが“安全”を理由に排除され、本質的には「利権防衛」のため封鎖されたのかを掘り下げる。


→ 第2部:「なぜUberは日本で禁止されたのか ― 公明党・国交省・タクシー業界の利権構造」へ続く